恋人の妹

目の前のこの男を、どう表現すればいいのか。

 

目は大きくも小さくもなく、一重ですこし離れてる。鼻は高め。唇はふつう。髪の毛は、長くも短くもなく、前髪にクセあるな。眉毛は、え、なにこれ。なんかボサボサしてんな。気持ちわる。男の人の眉毛ってよく見たことないけど、こんなもんなのかな?本人気にしてないのかな?頼んだら抜かせてくれるかな?まあいいや、眉毛ボサボサ。服装は、今はシャツ姿でネクタイはしてない。ふつう。私服姿も何回か見たことあるけど、こぎれいな感じだったな。あ、一回ドラえもんのTシャツに「ロック」って描かれてるのを着てて、あれはかわいかった。性格は、優しい。うん、優しい。怒られてるのはよく見るけど、怒ってるのは見たことない。怒られてもニコニコというか、なんかフニャフニャしてる。全体的に見ると、なんだろう、犬っぽい?でも男の人ってだいたいみんな犬っぽいか。犬種で言うと、パグ?パグはひどいな。私あんまり犬の種類とか知らないな。あれだ、あの日本の犬。散歩しててしっぽ上げてお尻丸出しで歩いてる、あれに似てる。

 

こいつは、お姉ちゃんの彼氏だ。

 

こいつとお姉ちゃんとは二、三年前から付き合ってて、私とお姉ちゃんは二人で住んでいる。なのでおのずと私とこいつもときどき顔を合わせている。でも二人だけで会ったことはないし、もちろん二人だけで食事をしたことも一度もない。それなのに、今私はこいつと二人、フランチャイズの定食屋で月曜日の夜九時にテーブルを挟んで向かい合って座っている。私の目の前にはおからコロッケ定食があり、こいつの前には何もない。奇妙な、最高に持て余した空気が今、この小さなテーブルの半径1メートルに充満している。

どうしてこうなったかというと、それは簡単。私がこのお店に入って食券を買って席に着いた直後、こいつがこの店に入ってきたのだ。この時間にこの場所でこのタイミングで入ってくるなんて、こいつ私のあとでも着けてきたのかと思ったが、たぶんそうではなかった。私はこいつが笑顔で手をあげた直後の、こいつの一瞬の後悔を見逃さなかったのだ。「しまった!気づかないふりをしとけばよかった!」とでも思った?だがもう遅い。後悔をしているのは私もいっしょだよ。

男は半笑いのまま遠慮がちに私の方まで歩いてきて、向かいの椅子に手をかけて「いいかな?」といった。私は完全におひとりさまモードだったので、正解は「ダメ」だったけど、それはそれでお互い悲しいことになりそうだったので、「もちろん」といって軽く口角を上げてあげた。こいつもまた想定外だったのだろう、何かのスイッチを一生懸命切り替えようとしているのが手に取るように伝わってくる。

「ここ、よく来るの?」

話しかけてきた。

「んー、遅くなった時にたまに」

おからコロッケを箸で割りながら、私は返答した。

「そっか。研究の方はどう?忙しいの?」

くるね。

「まあボチボチ。最近は実験よりも、なんか書類書いたりとかのほうが多いかな。そっちの仕事は?いつもこんな時間まで働いてるの?」

「いや、忙しいのは常にだけど、こんな時間に食事するのは珍しいかな」

こいつは日本はおろか、たぶん世界中の人に名が知られている超有名電機メーカーで営業かなにかの仕事をしている。そんなところに就職できるくらいだから、これまでさぞかしいろんな努力をしてきたんだろうなと思う。でも以前にそこの会社は従業員が3万人くらいいると言っていたから、努力した人のランキングも1位から30,000位まであると考えると、こいつ自身はたいしたことないんじゃないのかなとも思えてくる。ふしぎだ。

 

そんな弾まない会話をしていたら、こいつのごはんが運ばれてきた。サバ味噌定食。いいね、おいしそう。だがちょっと待て。なんてこった。ヤツのごはんは、“小”だ!女子か!

男はさっと箸を取ると、両手を合わせて軽く頭を下げ、「あーおなかすいた」と言いながら味噌汁を一口すすった。私は聞いてみた。

「ごはん、少なくない?男の人なのにそれで足りるの?」

すると男は私に顔を向け、一点も曇りのないまなざしで、平然とこう言った。

「え?だって、太りたくなくない?」

そんなんあんたに言われんでも100倍わかっとるわ!私は危うく声を荒げそうになったが、ぐっとこらえた。ぐっとこらえた瞬間の私は鬼の形相をしていたと思う。そう、こいつはこういうヤツなのだ。説教でもいやみでもなんでもなく、こういうことをサラッと言えてしまう。正しいことを正しく行える人間というか。事実、体重はきっと身長のあるこいつが一番重いと思うが、ポッチャリ度でいうと完全に私>お姉ちゃん>こいつ、の順だ。そんなガリガリボーイのくせにさらに普段から節制しようとしている。偉人だ。こいつはきっとダイエットの苦しみも悲しみも知らないのだろう。できる人間ならではの無邪気さ。悪意がないだけに余計タチが悪い。

 

そんな私の静かな憤りをよそに、男はサバ味噌定食をせっせと食べていた。このあたりはさすがに腐っても男子だけあって、食べるスピードは速い。ほとんど音も立てずにごはんもおかずもみるみる減っていくのは、小気味よくすらある。

サバ味噌野郎はおつけものを箸でつまみながら、私に聞いてきた。

「そういえばさ、最近なんか新しいの読んだ?」

ここでいう「なんか」はマンガのことだ。私たちは会うとだいたいマンガの話をしている。こいつがうちに初めて来た時に、家の本棚のマンガの量に感激し、その蔵書のほとんどが私のものだということにさらに感心していた。マンガについてはお姉ちゃんより私のほうが詳しい。

「んー、最近はそんなに新刊は買ってないかな。そっちはどう?」

「あー俺もそこまではチェックしてないかも。あ、でも『銃座のウルナ』は買って読んだよ。知ってる?」

「あ、それ私も本屋さんで表紙だけ見た。気になるよね。どうだった?」

「どうだろう?なんかすごい壮大な話なんだけど、壮大すぎて一巻だけではなんとも言えないってところかな。あ、でも装丁がかっこよかったよ。なんかこう、カバーが複雑に折り込まれてて、見たことない感じで。それはよかった」

「へー。私、マンガの装丁褒める人初めて見た」

「俺も。人にマンガの装丁褒めたの初めてだ」

そう言って二人で笑った。いけすかないところもあるが、こいつとするマンガの話は楽しい。

こういう話ができる友達は他にもいるけど、こいつはあまりグイグイ来ないというか、自慢したり私の知識を無理に引き出そうとしない、なんとも絶妙な距離感を保ってくれるので居心地がいい。もっと言うと、こいつには否定されない安心感みたいなのがあって、話していると私みたいな人間でも人と話していいんだとも思えてくる。こいつのこの距離感は、私がお姉ちゃんの妹だからそうしているのか。それとも、お姉ちゃんにも他の誰にでも、こいつはこういう風に接しているんだろうか。

さらにこいつは最近「デビルマン」を読み返したと話した。数年ぶりに読んだけど改めていろんな発見があっておもしろかったと言ったので、名作ってそういう力があるよね、と私はわかったようなことを言った。

それからもしばらくマンガの話をして、私たちは食事を終えた。会計のときにお金を出そうとしたら「いいよ、楽しかったから」と言って私の分も払ってくれた。なかなかいい男じゃないか、ごちそうさま。

 

店を出ると、夜の匂いがした。月曜日なのに週末のような感じがする。私の家は徒歩圏内なので、こいつは私を送ってから帰ると言い、私はお言葉に甘えることにした。一滴も飲んでいないのに、歩くとなんだか足下がフワフワする。私たちは並んで話しながら家に向かった。

「理美は、いま出張だっけ」

リミはお姉ちゃんの名前。

「うん、今東京。水曜日には帰るって言ってた。最近どう?お姉ちゃんとはうまくいってる?」

「どうだろう。まあ3年経つけど今でも会うと楽しいし、うまくいってるほうなんじゃないかな」

「結婚とかはしないの?」

「あー、それはどうなんだろうなあ。俺の方は正直、まだそこまでリアルじゃないかも。あいつも仕事変えてから楽しそうに働いてるし。そんな雰囲気ではないと思うけど、たぶん。まあ、いずれって感じかなあ」

「まあ、まだ若いしね」

「その言い訳もあと何年通用するかだよなー」

「ウカウカしてたらお姉ちゃん東京で男つくって帰ってこなくなったりして」

「それはやだなー」

「今日だって本当は出張じゃないかもよ」

そんなことを言いながらも、二人の結婚話が進んでいないことに私は内心ほっとしていた。二人の仲が良いのは嬉しいけど、“結婚に向けて突き進む二人”はあんまり想像したくない。なんかグロい。

 

その後は二人でお姉ちゃんあるあるみたいなのを話していたら、すぐに家の前についた。

「じゃあー、おつかれ」

私たちは向かい合い、ひと仕事終えたかのように、男はゆっくりと言った。

「どうする?ちょっと、あがってく?」

自分で言っておきながら、口に出した瞬間、私の心臓はどきんと動いた。

「え?理美、いないんだよね?」

「そうだけど。せっかく送ってくれたし。お菓子くらいならだすよ」

「ははっ、お菓子はいいよ。そうだね、うん。せっかくだけど、今日はやめとくわ。仕事疲れたし。家帰って寝たい」

「そっか。わかった」

「ありがとう。リカちゃんとメシ食えて楽しかったよ」

「私も。またマンガ読ませてね」

「うん、わかった。じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ」

彼は右手を上げると私に背を向け、夜道をまっすぐに歩き、一度も振り返ることなく交差点を左に曲がってすぐに消えた。曲がる直前に携帯を取り出したので、ぼんやりと顔が照らされるのが一瞬だけ見えた。

くそう、この距離感。

 

おわり

マンションのいい話

「この壁、本当に破れるのかな」

 日曜日の午後三時、ベランダでジーパンを干していてふと思った。隣の家との境に薄い壁があり、「非常時にはこの壁を破って避難することが出来ます。避難のため、この付近には物を置かないで下さい」と書かれていた。これまであまり気にしたことはなかったが、この壁がどのくらいの力で破れるのか、もし破れなかったらそれこそ非常時に大変なことになるのではないかと思い、思い始めるとどんどん気になって止まらなくなってしまった。

 非常時でもないのに突き破れば大変なことになるが、「これは安全の確認のためだ」と自分に言い聞かせ、試しにコンコンと軽くノックをしてみた。硬い。想像以上に硬い。これは本気で殴ったら拳のほうを骨折してしまいそうなくらい硬い。せめて突き破らないまでもどれくらいの力加減が必要なのかをみるため、今度は手のひらで数回バンバンとたたいてみた。ベニヤ板をたたくような大きく響く音はするものの、びくともしない。これはいよいよ引き下がれなくなり、今度は足で蹴ってみた。キックは力加減が難しいため軽い力から徐々に強くしていったが、何回目かで壁の向こうから声がした。

「なにを、されてるんですか?」

 女性の声。しまった、いくら休日の昼でもこんなにバンバン音をさせていたらそりゃクレームは来る。相手は怒っているような口調ではなく、むしろ少し怯えを含んだ心配そうな声だった。それはそうだろう、僕でも隣のベランダからこんな音がしていたら怖い。

「す、すみません。いや、この壁がどれくらいの力で蹴破れるのかが気になってしまって。すみません、うるさかったですよね。すぐにやめますので、すみません」

何度もすみませんと言い、気恥ずかしさも相まってそそくさと室内に退散しようとした。しかし洗濯物もまだ残っており放置するわけにもいかない。ためらっていると

「そうですよね」

とまた壁の向こうから声がした。少し低めの、よく通る声。若そうではあるが年齢まではわからない。

「私も前から気になっていたんです。もし火事があったときとか、私の力で破れるのかなって。で、実際にどうでした?」

まさかそんなことを聞かれるとは。戸惑いながら僕は答えた。

「いや、それが思ったより硬くて。そこそこの強さで蹴ったんですけど、それでもびくともしない感じですよ。でも、もうやめますんで、ほんとすみませんでした」

気持ちはいち早くこのベランダから立ち去りたく、洗濯物もひとまず部屋に入れといてほとぼりが冷めたらまた干そうと考えていた。しかし

「待って下さい」

彼女は終わらせてくれなかった。

「私もずっと気になってたし、そんなに力がいるんだったら確かめたほうがいいと思うんです。じゃあ、こうしませんか?私もこっちから蹴りますんで、お互い交互に蹴りあって、一度蹴りやぶってみましょうよ。安全の確認だってことをきちんと説明すれば、大家さんもまた直してくれると思いますし」

あれ、この人はちょっと変わった人なのかもしれない、あまり関わらない方がいいのかもしれないと思い始めたが、向こうの提案ももっともであり、どれくらいの力で蹴り破れるのかが気になるのも事実であった。

「いいんですか?」僕は聞いた。

「ええ?だって、気になりませんか?」

「まあ、最初は僕からしたことですし」

「じゃあやりましょうよ、こんなチャンスそうそうないですよ」

相手の妙なポジティブさに押され、結局交互に蹴り始めることになった。バスケットの中の洗濯物は蒸され始めている。

 最初は僕の方から蹴った。早く終わらせたかったのでさっきよりもかなり強めに蹴った。バン!と大きな音がしたが破れることはなかった。次に彼女が蹴った。どんなフォームかはわからないが、予想以上に大きな音がして壁が少したわんだ。相手の方から蹴られるとかなりびっくりする。「どうでした?」

僕の方から聞いてみた。

「いや、全然。ほんとに硬いですね、これ。足が痛いのでスニーカーはいてきます。よかったらやっててください」

彼女が室内に戻る音がした。ひとまず僕は残りの洗濯物を干していたが、干し終わらないうちに彼女は戻ってきた。

「どうです?」

今度は彼女が聞いてきた。

「いや、一回もやってないですよ」

「そんな、私に遠慮しなくてもいいですよ」

彼女は笑いながら返した。足下も見えないが、板の下のすきまから影だけはうっすらと見える。それからお互いに蹴り続けた。キックの威力をどんどん強くしていったが、いっこうに破れる気配はない。どうなってるんだこの壁は。キックボクサーが住むことでも想定していたんだろうか。無言で蹴り続けていたが、10回を超えたあたりで彼女が口を開いた。

「ごめんなさい」

「え?」

「うち、うるさかったでしょう」

「いや…」

ああ、確かに先月くらいまで夜になると口論のような声がたびたびしていた。決して壁の薄いマンションではないが、それでも聞こえていたということはだいぶエスカレートしていたのだろう。ただそれもある日を境にピタッとなくなり、特に気にもしていなかった。

「いや、そんなに気にするほどではなかったですよ。音はお互い様ですし」

僕の方は足を止めて答えたが、彼女は向こうの壁を蹴り続けながら話した。

「ごめんなさい」「挨拶もいかないで」「でも」「もうしませんから」

キックの合間に彼女は喋っているため、文節の区切りでバン!という大きな音がしている。壁は破れない。僕もキックを再開した。

「私」「先月」「離婚したんです」

沈黙が流れた。お互いのキックの音だけが響く。

「すみません」「こんな話して」「だから」「もうそれでお騒がせすることは」「ないと」「思います」

『もうそれでお騒がせすることは』で長く喋ったため、少しだけリズムがずれた。向こうは息切れし始めている。

「それは」「大変」「でしたね」

僕もキックをしながら返した。知らない人からこんな話をされても月並みなことしか言えない。僕は隣に住んでいる人の顔も名前も知らない。

「ありがとう」「ございます」「だから私」「ずっと」「落ち込んでたんです」「でも」「ずっと」「こうしてるわけにも」「いかないですよね」「こうやって」「がんばって」「自分で」「動かないと」「だれも」「助けて」「くれないじゃ」「ないですか」

泣いてる?キックの音、息切れの音に混じった声は少し震えている。単に慣れない運動をしながら喋っているからかもしれないが、相手の表情はわからない。返答に困る。

「でも」「そんなに」「がんばろう」「がんばろうと」「しなくても」「いいんじゃ」「ないですか?」

キックのリズムに合わせて僕は返した。

「自分で」「がんばり」「すぎなくても」「誰かが」「引き上げて」「くれるかも」「しれませんし」「だから」「落ち込むときは」「無理を」「しないほうが」「いいですよ」

もう何回蹴っただろう。玉のような汗が流れている。足も痛い。季節の割に気温は高く、青空に太陽が輝いている。壁は破れない。僕たちはキックを繰り返していた。

「ありがとう」「でも」「そんな」「人なんて」「いませんから」

さっきとは違い彼女の語気は強く、言い捨てるような刺々しさがあった。キックの音にも苛立ちが混じっているように感じる。

 それからはしばらく無言で蹴り続けた。姿は見えなくても相手の疲労は感じられ、徐々にペースは遅くなり、キックの音も弱くなっていた。

「大丈夫ですか?」

僕は聞いた。

「ええ」

彼女は短く答え、蹴り続けた。

「まだやれます?」

と聞くと

「やりましょう」「大丈夫です」

とだけ返ってきた。キックの音も聞き過ぎて、もはやうるさいのかどうかもわからない。

 そこからどれだけ時間が経ったのかはわからない。空はまだ青いが太陽はどこかに行き、その姿は見えなくなっていた。延々と無言で蹴り続けた末、ついに、ガタン!と音がし、壁の板が枠から外れた。無数の足跡がついたその板は、僕の方のベランダに、僕の足下に転がっていた。えも言われぬ達成感と、ようやく終われる解放感が僕を強烈に満たした。僕は大きくため息をつき、うなだれた。「開いたぁ」という言葉が思わず口をついた。

 顔を上げると、目の前に女性がいた。部屋着のワンピースに、スニーカーを履いていた。僕と同じくらい汗だくで、真っ赤になったその顔は、嬉しそうに笑っていた。

 

「お茶でも、いれましょうか?」

 

 

おわり

 

 

※この作品はフィクションです。実在の人物、団体とはいっさい関係はありません。あとたぶんベランダの壁はもっと軽い力で破れると思います。