マンションのいい話

「この壁、本当に破れるのかな」

 日曜日の午後三時、ベランダでジーパンを干していてふと思った。隣の家との境に薄い壁があり、「非常時にはこの壁を破って避難することが出来ます。避難のため、この付近には物を置かないで下さい」と書かれていた。これまであまり気にしたことはなかったが、この壁がどのくらいの力で破れるのか、もし破れなかったらそれこそ非常時に大変なことになるのではないかと思い、思い始めるとどんどん気になって止まらなくなってしまった。

 非常時でもないのに突き破れば大変なことになるが、「これは安全の確認のためだ」と自分に言い聞かせ、試しにコンコンと軽くノックをしてみた。硬い。想像以上に硬い。これは本気で殴ったら拳のほうを骨折してしまいそうなくらい硬い。せめて突き破らないまでもどれくらいの力加減が必要なのかをみるため、今度は手のひらで数回バンバンとたたいてみた。ベニヤ板をたたくような大きく響く音はするものの、びくともしない。これはいよいよ引き下がれなくなり、今度は足で蹴ってみた。キックは力加減が難しいため軽い力から徐々に強くしていったが、何回目かで壁の向こうから声がした。

「なにを、されてるんですか?」

 女性の声。しまった、いくら休日の昼でもこんなにバンバン音をさせていたらそりゃクレームは来る。相手は怒っているような口調ではなく、むしろ少し怯えを含んだ心配そうな声だった。それはそうだろう、僕でも隣のベランダからこんな音がしていたら怖い。

「す、すみません。いや、この壁がどれくらいの力で蹴破れるのかが気になってしまって。すみません、うるさかったですよね。すぐにやめますので、すみません」

何度もすみませんと言い、気恥ずかしさも相まってそそくさと室内に退散しようとした。しかし洗濯物もまだ残っており放置するわけにもいかない。ためらっていると

「そうですよね」

とまた壁の向こうから声がした。少し低めの、よく通る声。若そうではあるが年齢まではわからない。

「私も前から気になっていたんです。もし火事があったときとか、私の力で破れるのかなって。で、実際にどうでした?」

まさかそんなことを聞かれるとは。戸惑いながら僕は答えた。

「いや、それが思ったより硬くて。そこそこの強さで蹴ったんですけど、それでもびくともしない感じですよ。でも、もうやめますんで、ほんとすみませんでした」

気持ちはいち早くこのベランダから立ち去りたく、洗濯物もひとまず部屋に入れといてほとぼりが冷めたらまた干そうと考えていた。しかし

「待って下さい」

彼女は終わらせてくれなかった。

「私もずっと気になってたし、そんなに力がいるんだったら確かめたほうがいいと思うんです。じゃあ、こうしませんか?私もこっちから蹴りますんで、お互い交互に蹴りあって、一度蹴りやぶってみましょうよ。安全の確認だってことをきちんと説明すれば、大家さんもまた直してくれると思いますし」

あれ、この人はちょっと変わった人なのかもしれない、あまり関わらない方がいいのかもしれないと思い始めたが、向こうの提案ももっともであり、どれくらいの力で蹴り破れるのかが気になるのも事実であった。

「いいんですか?」僕は聞いた。

「ええ?だって、気になりませんか?」

「まあ、最初は僕からしたことですし」

「じゃあやりましょうよ、こんなチャンスそうそうないですよ」

相手の妙なポジティブさに押され、結局交互に蹴り始めることになった。バスケットの中の洗濯物は蒸され始めている。

 最初は僕の方から蹴った。早く終わらせたかったのでさっきよりもかなり強めに蹴った。バン!と大きな音がしたが破れることはなかった。次に彼女が蹴った。どんなフォームかはわからないが、予想以上に大きな音がして壁が少したわんだ。相手の方から蹴られるとかなりびっくりする。「どうでした?」

僕の方から聞いてみた。

「いや、全然。ほんとに硬いですね、これ。足が痛いのでスニーカーはいてきます。よかったらやっててください」

彼女が室内に戻る音がした。ひとまず僕は残りの洗濯物を干していたが、干し終わらないうちに彼女は戻ってきた。

「どうです?」

今度は彼女が聞いてきた。

「いや、一回もやってないですよ」

「そんな、私に遠慮しなくてもいいですよ」

彼女は笑いながら返した。足下も見えないが、板の下のすきまから影だけはうっすらと見える。それからお互いに蹴り続けた。キックの威力をどんどん強くしていったが、いっこうに破れる気配はない。どうなってるんだこの壁は。キックボクサーが住むことでも想定していたんだろうか。無言で蹴り続けていたが、10回を超えたあたりで彼女が口を開いた。

「ごめんなさい」

「え?」

「うち、うるさかったでしょう」

「いや…」

ああ、確かに先月くらいまで夜になると口論のような声がたびたびしていた。決して壁の薄いマンションではないが、それでも聞こえていたということはだいぶエスカレートしていたのだろう。ただそれもある日を境にピタッとなくなり、特に気にもしていなかった。

「いや、そんなに気にするほどではなかったですよ。音はお互い様ですし」

僕の方は足を止めて答えたが、彼女は向こうの壁を蹴り続けながら話した。

「ごめんなさい」「挨拶もいかないで」「でも」「もうしませんから」

キックの合間に彼女は喋っているため、文節の区切りでバン!という大きな音がしている。壁は破れない。僕もキックを再開した。

「私」「先月」「離婚したんです」

沈黙が流れた。お互いのキックの音だけが響く。

「すみません」「こんな話して」「だから」「もうそれでお騒がせすることは」「ないと」「思います」

『もうそれでお騒がせすることは』で長く喋ったため、少しだけリズムがずれた。向こうは息切れし始めている。

「それは」「大変」「でしたね」

僕もキックをしながら返した。知らない人からこんな話をされても月並みなことしか言えない。僕は隣に住んでいる人の顔も名前も知らない。

「ありがとう」「ございます」「だから私」「ずっと」「落ち込んでたんです」「でも」「ずっと」「こうしてるわけにも」「いかないですよね」「こうやって」「がんばって」「自分で」「動かないと」「だれも」「助けて」「くれないじゃ」「ないですか」

泣いてる?キックの音、息切れの音に混じった声は少し震えている。単に慣れない運動をしながら喋っているからかもしれないが、相手の表情はわからない。返答に困る。

「でも」「そんなに」「がんばろう」「がんばろうと」「しなくても」「いいんじゃ」「ないですか?」

キックのリズムに合わせて僕は返した。

「自分で」「がんばり」「すぎなくても」「誰かが」「引き上げて」「くれるかも」「しれませんし」「だから」「落ち込むときは」「無理を」「しないほうが」「いいですよ」

もう何回蹴っただろう。玉のような汗が流れている。足も痛い。季節の割に気温は高く、青空に太陽が輝いている。壁は破れない。僕たちはキックを繰り返していた。

「ありがとう」「でも」「そんな」「人なんて」「いませんから」

さっきとは違い彼女の語気は強く、言い捨てるような刺々しさがあった。キックの音にも苛立ちが混じっているように感じる。

 それからはしばらく無言で蹴り続けた。姿は見えなくても相手の疲労は感じられ、徐々にペースは遅くなり、キックの音も弱くなっていた。

「大丈夫ですか?」

僕は聞いた。

「ええ」

彼女は短く答え、蹴り続けた。

「まだやれます?」

と聞くと

「やりましょう」「大丈夫です」

とだけ返ってきた。キックの音も聞き過ぎて、もはやうるさいのかどうかもわからない。

 そこからどれだけ時間が経ったのかはわからない。空はまだ青いが太陽はどこかに行き、その姿は見えなくなっていた。延々と無言で蹴り続けた末、ついに、ガタン!と音がし、壁の板が枠から外れた。無数の足跡がついたその板は、僕の方のベランダに、僕の足下に転がっていた。えも言われぬ達成感と、ようやく終われる解放感が僕を強烈に満たした。僕は大きくため息をつき、うなだれた。「開いたぁ」という言葉が思わず口をついた。

 顔を上げると、目の前に女性がいた。部屋着のワンピースに、スニーカーを履いていた。僕と同じくらい汗だくで、真っ赤になったその顔は、嬉しそうに笑っていた。

 

「お茶でも、いれましょうか?」

 

 

おわり

 

 

※この作品はフィクションです。実在の人物、団体とはいっさい関係はありません。あとたぶんベランダの壁はもっと軽い力で破れると思います。